◆大正時代
山陰地区にめっきがいつごろ導入されたかは、(株)倉敷メッキ工業所の取締役会長倉敷建一氏の「我が社の歴史を今振り返って思う」に詳しく記してある。
それによると、米子では米子駅前(当時万能町)で大正4年頃、大阪から来たひとの経営するめっき工場を倉敷康一氏(現代社長は3代目)が引き継いだのが始まりである。
その当時の加工物のめっきは、自転車をバラして塗装及びめっき物に分けてめっき物は研磨して銅めっき、ニッケルめっきを施した。
米子では、大正末期に自転車店と自動車修理工場がめっき業を始めたが、両社とも数年で廃業した。
境港市の自転車店も昭和12年頃めっきを始めたが、戦時中に廃業。戦後、米子市の洋服店がめっきを始めたが、これもももなく廃業した。従って、米子地域では現在(有)倉敷めっき工業所だけが操業中である。
また、鳥取では大正の初期頃鳥取市内にめっき工場が2社あったが、2社とも倒産または廃業した。
大正10年頃、その両社に外注していた金属機械加工業のマツダ安鐵工所の2代目社長の松田安治郎氏が自力でめっきを始めた。
氏は大阪より直流発電器等めっき設備を購入し、自社で加工した謄写版用金具にニッケルめっきを施し、バフ研磨をして光沢を出した。更にしょうわ15年頃には、亜鉛めっき、錫めっきも実施した。しかし、昭和27年、鳥取大火災により設備を消失し、めっき業をやめる。
松田安鐵工所が社内めっきを始めた頃、鳥取市東品治にて磯雄鐵蔵氏が従業員と二人で山陰電気鍍金工場を経営した。仕事は自転車部品が主で盛況であったが、昭和6年に不慮の事故死で工場閉鎖する。
◆昭和時代
戦後まもなく、鳥取市桶屋町にて(株)アサヒメッキの前身である旭輪業が自転車の修理販売に加えて、自転車の再生めっきを始める。
昭和23年夏頃、鳥取市瓦町にて、岡村八郎が岡村めっき工業所を開業し従業員6名で銅・ニッケル・クロームめっきを24年間操業した。昭和25年には、堀鍍金工業所が岩美郡国府町にて、医療器機の修理を始め、メス・ハサミの研磨、そして農機具部品へニッケルめっきをしたのが始まりである。
また、倉吉市で昭和32年に日本圧着端子製造(株)が自社製品の圧着端子にめっきを始めた。
そして、昭和41年に三洋電機が鳥取に進出、それに伴い大阪の旭鍍金工業(株)が鳥取市雲山に社名を鳥取旭工業(株)として進出し、昭和42年1月に設立し、5月より操業する。
昭和42年3月には、上原メッキ工業所が鳥取市南吉方にて、バフ研磨・亜鉛メッキを主に始める。
米子では、昭和45年に大栄金属工業(株)が自社製品の抵抗体に酸性亜鉛めっきを始めた。
さらに鳥取市で、昭和57年4月にアロー産業(株)が自社製品のプリント配線基盤に無電解銅めっきを始めた。

◆大正時代
大正時代、松江に丸国メッキ工場があったが、何時創業し何時廃業したのか不明である。
◆昭和時代
昭和22年、出雲市に横山太郎氏の経営する(有)島根鍍金工業所があった。そこの工場長金山大造氏の話では、当初「島根自転車鍍金工業所」といって仕事は、自転車、オートバイ等の部品の錆とめっきを落として、バフ研磨をした後再びめっきする再生めっきであった。昭和40年まで約18年間操業した。
大正12年創業の(株)中島製作所は、自社製品のミシン部品へのめっきの必要から、昭和26年頃、松江市東津田町にてミシン部品へニッケルめっきを始めた。また、(株)安井鉄工所は、昭和21年から八束郡東出雲町揖屋にて鉄工業を創業していたが、当地域にめっき業者が無く、鉄工業界の要請で昭和27年にめっき部門を設立した。当初計画では、分社として別経営で山陰電気鍍金工業所として操業した。
昭和61年11月に(株)アサヒめっきが出雲市長浜町に出雲工場を開業する。